「ゲーム脳」は存在しないけど、「フィクション脳」は存在するというお話

一昔前に世間を騒がせた「ゲーム脳」という言葉。
ゲームをやりすぎたあまり、そのゲームと現実を混同して非人道的な言動を起こしてしまうような人の状態を「ゲーム脳」と表現していた。

しかしこの「ゲーム脳」というものは存在しない。

スカイダイビングやバンジージャンプをやりすぎたからといってパラシュートや紐なしで飛ぶやつなんていないし、お化け屋敷が好きすぎたから墓地や人が亡くなった事故現場に面白半分で行く、みたいなやつは聞いたことがない。
なのに、ことゲームだけは「ゲーム脳」というように、ゲームと現実を混同されて言動すら変えると信じられている。不思議なものだ。

この「ゲーム脳」の本質は考えるに、ゲームをしすぎるとその時間分で得られたはずの経験や知識が抜け落ちるため、いわるゆ”まともな人”よりも、そういう部分が欠如しているだけの話である。
またそういう人が問題行動を起こすのではなく、問題行動を起こすような人がゲームを好みやすい性質があるという話だけかもしれない。パンを食べている人が犯罪を犯すのではなく、犯罪を犯した人がパンを食べていただけでパンを悪と決めつけているようなものだ。

まあこういった理由で「ゲーム脳」は存在しないと断定したが、そのかわり「フィクション脳」は存在すると確信している。

当記事では、その「フィクション脳」とはなにか、そしてその「フィクション脳」の危険性についての自論を述べていく。
なお、なんら科学的検証は行っておらず、あくまでも筆者”ぴなのん”の経験と思考から導いた結論であることを明記しておく。

目次

起:フィクション脳とは。フィクション脳を定義する

当記事で述べる「フィクション脳」について、まずは定義しておく。

それは

”フィクションで起こることが現実で起こるかもしれないと、わずかでも無駄な期待を持ち続けてしまう精神状態のこと”

である。

人はだれしも一度はフィクションの作品を見たことがあるだろう。
ゲーム・小説・漫画・アニメ・ドラマ・映画・舞台などに代表されるフィクション作品だが、もっと広い範囲で見ればバラエティ・音楽・お笑いなどもフィクションといえる。

それらで見ることができるものは、現実では99%以上起こらないがとてつもないリアリティを持っている。
故に、それが現実でも起こりうるのではないかと思ってしまうのだ。それをフィクション脳を表現している。

承:フィクション脳の危険性

フィクションは当然ながら、人間が理想とする世界が広がっており、その世界はあまりに魅力的である。
それでいて、その世界をわかりやすく伝えるために、厚くリアリティを持たせている作品が大多数である。

そのせいでどこかにその理想の世界が存在しているのではないかその理想が自分のところに訪れるのではないかという思いを持ってしまい、そうはいかない現実の世界に対して少しずつ失望していくのだ。

そうして望みのなくなった現実の世界はあまりにも虚しく寂しいように思えてしまい、さらに理想の世界を見せてくれるフィクションに傾倒していく。
そしてついには現実と自分の思い描く理想の世界とのギャップが苦しくなる。

最初は理想の世界を楽しんでいたはずが、最終的には現実の世界が苦しいと感じるようになる。
これがフィクション脳の危険性である。

具体例①

フィクション脳に陥りやすい作品の代表例が、恋愛作品であろう。

フィクションの恋愛の多くは、きれいなところばかり描かれることが多い。
現実ではそんな単純でも簡単でもないことを、フィクションでは”フィクションだから”の一言でそれを解決してしまう。

そんな”フィクションだから”で解決していることを「きっと簡単なことなんだろう」と深層心理でも思ってしまえば、それがフィクション脳への入り口である。現実とのギャップがもうすでに発生し、その溝は以後深まる一方である。

具体例②

フィクション作品では、主人公はなにか特殊な能力を持っていて、それでもって夢を叶えるようなものが存在する。

我々人間の大多数はそんな特殊な能力を持っていないし、夢を叶えられる人間はごくごくわずかである。だが、目にする作品全てがそうやって夢を叶えていったら、さも簡単なことのように思うだろう。

”もしかしたら自分には主人公のような特殊ななにかがあるかもしれない、なにかが目覚めるかもしれない”
”主人公のように夢を叶えることができるかもしれない”

そんなことは起こり得ないのが現実である。

ほんのちょっとでもこう思ってしまえば、それはフィクション脳にハマるきっかけになってしまうかもしれない。

転:フィクション脳からは簡単には脱せない

フィクションをフィクションと割り切って楽しめる人間は、そもそも現実にある程度でも満足している人間である。
理想の世界を羨まなくていいほど現実が充実していればフィクション脳になる心配などない

しかしフィクション脳になってしまう人間は、現実に対して大なり小なり不満を持っている。
今ある現実を受け入れたくない、ありもしない理想に思いを寄せてしまうくらいに弱っているという言い方もできる。

そもそも弱い人間、弱っている人間がフィクション脳になってしまうのに、そのフィクション脳から脱する方法は現実を充実させて満足するしかないということだ。

あまりにも厳しい話だが、フィクション作品はそれだけの魅力があり、パワーがあり、危険を孕んでいるのである。

結:たったひとつのフィクション脳対策

これまでさんざんフィクション脳はやべーよ、抜け出せねーぞという話だけをしてきたが、その対策方法はほぼ存在しない。

ある種、麻薬のような性質を持つフィクション作品にハマらないようにするには、そもそもフィクション作品をできるだけ遠ざけるしかないのだ。

そうしたらきっとフィクション作品を楽しむのに使ってた時間が空いて、他のことができるようになる。

その時間を現実を充実させるために使おう。

本当になんでもいい。勉強してみたり、なにかの上達を目指してみたり、誰か友達を新しく作ってみたり、どこかに出かけてみたり。
そうやって現実を楽しめるようになったら、きっとフィクション作品を正しく楽しめるだけの”余裕”が出てくるはずだ。

なにより筆者自身が患っているフィクション脳から脱せるよう、余裕のある人間を目指すことが当面の目標だ。

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