今となっては紙の本が高級な嗜好品となっている件について

先日このような記事を見かけました。

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記事の内容を軽く要約すると
赤坂駅周辺の本屋がここ1年くらいで次々と閉店している
閉店が決定した文教堂赤坂店が「書店と言う業態が必要とされなくなっているのだろうか?」というTweetを投稿
電子書籍の利用比率が増え、紙の本の利用者が減っていることに警鐘を鳴らす人がTwitterで複数人現れる

これらの意見は至極真っ当であるのですが、あくまでも理想論。
我々にその力が残っていないという現状を考えると、この意見に応えることは難しいであろうと思うわけです。

つまりは

今となって本は高級な嗜好品であり、その中でも紙の本は非常に贅沢な品である

という状況なのではないか、ということです。

目次

紙の本が高級な嗜好品となってしまっている理由

第一章 本の価値とは

そもそも本の持つ価値は非常に多様にわたっており、一度購入してしまえば死ぬまで無限に読むことができるという”圧倒的コストパフォーマンス”に加えて、自らの向上に繋がるものが得られる”知恵の根源”でもあり、様々な創作物から刺激を受けることのできる”創造力のトレーニング”教材として非常に重宝するものです。

図書館なんかはその宝庫であり、重宝した方も非常に多いと思います。

これらの特徴を併せ持つ本というものは、唯一無二の存在として絶対的優位性を持っていました。
しかしその価値は「インターネット」の出現により価値を大きく落とすことになるのです。

第二章 インターネットの出現

1990年代から大幅に進化を遂げたインターネットという存在は、今ではもう我々の生活とは切り離せないものとなっており、我々が任意の情報を得たい時に非常にお世話になっているWikipediaを筆頭とした数々のサイトたちは、まさにデジタルの図書館といって差し支えないものとなっています。

また過去においては本という媒体で”何らかの実績や権威のある人間だけが発信することができる”という環境であったのが、インターネットという媒体を使うことで”誰しもが発信者となり、そこから実績や権威を得ていく”という環境も発生し、得られる知見が圧倒的に増えました。

さらにはインターネットには、現実に存在している本をデータとしてほとんど同じように扱えてしまう環境が存在しています。
環境破壊などが騒がれる昨今では、新たな環境資源を使用しないという点においてもインターネットは優位性を発揮しているわけです。

そして何より、これらは”我々の生活の中でも必需品となったスマートフォンで閲覧できる”のです。
生活における必要経費以上に支出を出すことなくこれらの益を享受することのできるインターネットは、今まで本が持っていた絶対的優位性を突き崩したわけです。

ただしインターネットの出現は本の価値を大きく落としたとは言ったものの、今でも本がなくなっているわけではありません。
実際、学校教育でも「インターネットの情報ではなく本の情報を使いなさい」と口を酸っぱくして言われるくらいには、本というものは今でも根強く我々の中で残っています。

インターネットの出現により価値が暴落したはずの今、どうして本が存在し続けることができるのか。

それは今までには気づかなかった、本の優位性が存在していたからに他ならないでしょう。

第三章 インターネットの出現により初めて見えてきた、本の優位性

インターネットの優位性が存分に発揮される前に感じていた優位性があまりに大きすぎたため、我々はその優位性に気付くことができませんでした。しかしインターネットの出現によって我々が気付かされた本の優位性があり、それは大きく考えて2つあると考えられるでしょう。

それは

情報の責任の所在が明確であり、そのことによって一定の水準が担保された情報が見れる点

三次元上の物質として扱える点

の2つです。

情報の担保

インターネット上に書かれている情報に信憑性が全くないわけではありませんが「どこの誰が書いていて」「何を出典としていて」「その情報の責任を持っている存在」が明確であることは少ないです。
それはインターネット上では多くの場合において「ユーザー名」という仮の名前を使用しており、その名前はいつでも捨てることができてしまうため名前にかかっている責任の重さは非常に軽く、その情報が得られるに至った出典まで添えて情報を発信する人は非常に稀であるため、情報の多さは優秀でも質に関しては常に疑問符が付く環境といえます。

対して本というものに書かれている情報は「著者」や「出版社」が明らかであり、安易に間違った情報を発信しようものならば関係者の社会的地位が落ちてしまうというリスクを負っている状態にあるため、一定の質が保証されていると考えていいものとなっています。
これはインターネット上で質の悪い情報が多く出回ったことにより気付かされた大きな優位性です。

三次元上の物質

前述した本の優位性はあくまでも「本」と「インターネット上の有象無象」の比較であり、出版社が電子データとして販売している「電子書籍」の場合は当てはまりません。
しかしながら、紙の本と電子書籍の比較でも、紙の本が三次元上の物質として扱えるという優位性が今後揺らぐことはないでしょう。

我々が本を読もうと思った時、それは「情報を得るため」であったり「物語を読むため」であったり「他人の考えを知るため」であったり、目的は様々ですが、”それを一瞬で忘れても構わない”と思う人間はいないでしょう。

つまり、本というものは記憶に残してなんぼということです。

そしてその記憶というものは、”関連するものが多ければ多いだけ記憶に残りやすい”という性質があります。

電子書籍を筆頭とした電子上の情報は画面操作によって得ることになり、どうしても二次元上でしか扱えません。
対して紙の本の場合は三次元上で扱うことができ、物理的な紙の厚さから「本の中でどの位置に存在した情報である」という情報が一つ加わります。
一度読んだ紙の本で、ある箇所だけもう一度読み返したいと思った時に、紙の本だと割とすぐに該当箇所を見つけられる経験がある方も多いのではないでしょうか。

またデジタルの情報を受け取る際には、集中力が多少低下するという可能性も指摘されているようです。(詳しくは以下へ)

引用元にしたサイトが消えてしまっていました・・・1

記載したサイトでは「理解度や定着度を追求するなら紙の本」という結論で語られており、この理論を正しいと考えているのが自分だけではないということが分かって頂けるかと思います。(というよりこの人の情報で十分という話はある)

また電子上の情報では閲覧する場合にサーバーやハードディスクやどこかのサービスなどの他に依存しているのに対し、紙の本は基本的には自分の家に置いておくだけで半永久的にその情報が保管できるという管理の簡単さや確かさも三次元上だからこその優位性です。

余談ながら記憶についての話を少しだけ

人間の記憶というのは、関連する情報が多ければ多いだけ記憶に残りやすくできています。

「りんご」というもの一つとってみても、
「果物である」「甘みがある」「赤い」「丸い」「木から生えている」「英語ではApple」「青森が生産量一位」「ふじやつがるなどの品種がある」「医者いらずと言われるくらいに体にいい」「ジュースにもなる」・・・
など、たくさんの関連する情報がばばばっと出てくると思います。

そして別の情報を得た時には、自動的にこれらに結び付けて脳内で処理されます。
例えば「みかん」を見たり食べたりした場合、脳内では
「りんごと同じ果物である」「りんごと同じく甘みがある」「りんごよりは小さく、丸みもリンゴより少し潰れた形である」「りんごと同じようにジュースにもなる」・・・となるわけです。

この際、既にある自分の持っている情報に関連して処理されればされるほど記憶に残りやすい傾向にあります。イメージとしてはクモの巣に近い感じです。(ある情報を通そうとした時に、既に持っている情報がたくさんあればあるほど巣の密度が高くなって絡まりやすく、巣に絡めとられた場合は通り抜けられないためそのまま残るようなイメージです。)
頭の良い人が記憶力が良く見えるのは、このクモの巣のような知恵の網が色々なジャンルに張り巡らされており、どんな情報でも絡めとって残すことができるからなのです。

記憶に留めたい情報がある場合は、できるだけ色々な情報と一緒に覚える癖をつけると良いかもしれません。

第四章 それでも電子データが選ばれてしまう現実

今までに記述してきた内容を見ていると「なんだやっぱり紙の本のがいいんじゃないか!」と思うかもしれませんが、現実として紙の本を選ぶ人間は確実に減ってきています。
それは冒頭に書いたように「今となって本は高級な嗜好品であり、その中でも紙の本は贅沢品である」というマイナス面の方が大きくなってしまっているからです。

というのも、本というものは現代の流行や状況と噛み合わない非常に大きなコストがかかるのです。
そしてお世辞にも景気がいいとは言えない現在の日本では、そのコストを払える人間が少なくなっているという悲しい現実もあるのです。

本にかかるコスト 時間

そもそも本というものは生きる上で必ず必要なものではありません。ということは、本は一種の娯楽品とも考えられるわけです。
ただ現代社会には娯楽が溢れかえっています。
最近流行りのSNSという分野の一つのTwitterは140字のコンテンツでありますし、TikTokも短い時間の動画、YoutubeでもShortと言って1分以内の動画が流行っているくらいには、短い時間で多数のコンテンツに触れる形式の娯楽が現代の流行なわけです。

それに対して本というものは、まさに正反対ともいえる特徴であり、長い時間で一つのコンテンツをじっくり楽しむものであります。

流行りの娯楽に慣れてしまった人間にとって、本というものはある意味物足りなく、退屈なものに見えるでしょう。
実際には本にはとても良い深みがあって面白かったとしても、その深みを感じるのに必要な時間を別のことに使いたい=”本に時間のコストをかけるのはもったいない”と思ってしまうのが現代社会に生きる日本人の特徴なわけです。

紙の本にかかるコスト 空間

前述の本とは違い、こちらは紙の本特有のコストではありますが、紙の本にはそれ特有のコストがかかります。

それは、三次元上の物質であるが故に持ち歩いたり保管する時にスペースを取ってしまう=空間的コストがかかる
ということです。

お世辞にも景気がいいとは言えない日本において、生活にかかるお金はできるだけ少なく生きなければなりません。その中でも効果の大きいものの一つが、毎月かかる家賃です。家賃を減らすことは居住スペース以外の、余剰スペースの圧迫を意味します。
つまり、スペースというコストを削って生きている現代人にとって、そのスペースを使用しなくてはならない紙の本というものは合わないということなのです。

また、当然本を持ち歩く労力も、電子上のデータで持ち歩けばスマホ一つだけでどこでも読めるという点も大きいでしょう。

余談 コストがかかりすぎるが故に起きてしまっている問題

また、シンプルに本を購入するのにはお金というコストがかかります。
これも不景気の影響なのか「漫画村」という、漫画を購入してない人でも無料で全部読めてしまうインターネットサイトが誕生し、こともあろうか流行ってしまっていました。

現在では政府が対応に乗り出したこともあってか数は大きく減らしているものの、まだそういったサイトは存在しているという噂はあるようです。まさにイタチごっこ。

モラル的な問題もあるため全部不景気のせいだとはいいませんが、漫画を買わずに読んでしまおうという行為が流行ってしまうのはさすがに異常です。これほどまでに我々日本人にはコストを払う余裕がないということなのでしょう。

問題の根本的解決に向けて

実際本というものは大きくコストがかかるものであり、現代社会を生き抜く我々にはなかなか手の遠い存在であるかもしれません。
しかし遠いからと手を伸ばさないままいると冒頭に紹介した記事のようなことも現実となってしまって、いつかなくなってしまうかもしれないものでもあります。

我々にも生活があるため本を買うことが難しい場合も当然ありますが、せめて自分の好きなものに関するものだけでも紙の本で購入することで、自分の好きなコンテンツを少しだけでも支えていこうという意識を持って生きていければいいかな、なんて思っています。

皆さんも自分のお財布や家の空間や時間と相談しながら、できる範囲でコストを惜しまずしっかりかけていくことで救えるものがあるかもしれないということを意識して、一緒に少しでもいい世の中にしていければいいなという願いを込め、今回の記事を締めさせていただきます。

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